魔性の月
著者:くらげさま


銀白色の月が美しい。
黄昏時。暗い群青色の空に、くっきりと月が浮かび上がっている。
伊東甲子太郎は、煙管をくゆらせながら縁側で月を眺めた。


むかしから、月を眺めるのが好きだった。
とくに、霞みかかった朧月夜が伊東の気に入りだ。
空が白むまで、夜空を眺める幼い自分に、なぜか、母はたしなめた。

「そんな真似はおやめなさい。月は不吉なものなのよ」

皓々と光る月に、母は何を思っていたのだろう。

黒い漆を流したような夜空に、君臨する月。
ただ、そこにあるだけで美しい存在は、手折ることの許されぬ高嶺の花だ。

完璧すぎるほどの美は、妖しく人の心を捕らえて離さない。
それゆえに、母は不吉さを抱いたのかもしれない。

今宵の月もたまらなく美しい。
こんな夜は、歌を詠みたくもなる。



「伊東先生」



背後からの声に、伊東はわれに返った。

「やはり、こちらにおいででしたか。探しましたよ」

袴の裾をさばいて、伊東の居室に入った若い男。
名を斎藤一という。
切れ長の双眸に、整った鼻梁。
腰まである、長く、黒絹のような髪を、紺の紐で結っている。
御家人の出という出自からか、武家の人間がもつ特有の気品を身にまとっている。

斎藤は、剣客集団の新選組の中でも、一、二を争うほどの剣の達人。
若年ながらも新選組の幹部を務めていた。

新選組の重鎮として血塗られた任務を多くこなしていながらも、
人斬りのよくもつ血生ぐさい殺気は微塵もない。
清らかな美しさがある、とでも云おうか。
匂い高い白百合のような、気高く、清楚な雰囲気を醸し出す男だ。

「今宵の月は美しいですね。良い句はできましたか?」

「まだ考え中だ。斎藤は、どうだ。なにか句が浮かんだか?」

「わたしは、武骨者ゆえ。そのような教養は嗜みませぬ」

黒曜石のように黒い瞳が、伊東を見すえていた。
感情が読み取れぬ、不思議な眼だ。

伊東は、孝明天皇の陵墓を守るという名目で、「御陵衛士」として新選組から分離している。

屯所は、高台寺党頭の月真院。
新選組から離れる際には、多くの同志が伊東についてきた。
斎藤も、その一人である。

「斎藤、きみは土方副長と懇意だったはずだ。
なぜ、わたしについてきた?」

「わたしとて、国を憂いる攘夷論者です。
幕府に媚びへつらうことばかりを考え、攘夷の本意をなくした隊に、見切りをつけました。
今後は伊東先生の片腕として働きたく、御陵衛士に参加いたしました」

模範的な答えだ。文句のつけようもない。

(土方から命令された間者のくせに・・・よくもぬけぬけと、嘘がつけるものだ)

伊東は内心、あざ笑った。

斎藤は、新選組発足当初からの古参幹部で、副長・土方歳三の懐刀でもある。
汚れ仕事を一手に引き受けていたこの男を、土方が手放すわけがない。

日ごろ、感情を面にださぬ斎藤は、”間者”としてはうってつけだ。
御陵衛士として隊から離れた伊東を監視するために、
土方は斎藤を潜入させたに違いない。

「伊東先生、わたしが信用できませんか」

斎藤が、ふいに眉をひそめた。

「局長や副長と袂を別ったわたしを、お疑いですか」

「信用しろという方が、無理な話だろ」

「そうですか」

やおら、斎藤は腰の刀を引き抜いた。
自分を斬るつもりか、と伊東は一瞬身構えた。

が、斎藤の脇差は、伊東のほうへは向けられなかった。

「よせ!!」

伊東はとっさに、斎藤の腕をつかんだ。
斎藤は、腹を切ろうとした。
伊東の止めるのが少しでも遅れていたら、まちがいなく斎藤の腹に刀が貫いたであろう。

「なぜそんな真似を・・・」

「いまさら、隊に戻ることはできませぬ。
それは、伊東先生がよくご存知のはずです」

御陵衛士と新選組との間に無用な摩擦を避けるために、
伊東と近藤は「互いの隊士の移籍を禁止する」という約定を交わしている。

つい最近、田中寅三という隊士が、新選組から脱退して御陵衛士への参加を申し出たが、
伊東は約定を理由に、断った経緯がある。
その後、田中は新選組に捕縛され、切腹の処分を受けた。
斎藤は、そのことを云っている。

「隊に戻ったとて、約定違反で殺されます。ならば、いさぎよく腹を切るべきかと。
伊東先生に見捨てられれば・・・わたしは居場所がありません」

あいかわらず静かな口調。
だが、上目づかいにいう斎藤の態度には、どことなく媚が感じられた。

「間者」という任務に、失敗は許されない。
しくじれば、それは即、死に結びつく。

斎藤は、隊へ戻りたくても戻れないのだ。
伊東への訴えが真摯なものになるのも、無理はない。


そう。すべては、任務のために。


(そうだ。わたしがこの男を生かしてやっているんだ)

得もいえぬ優越感が、うまれてきた。
と同時に、残酷な気持ちも芽生えてきた。

「わたしは伊東先生のお力になりたいと思い、やってきたのです。
伊東先生のご命令ならば、わたしは喜んで従うつもりです」

「ほんとうに、わたしに従うのか?」

「はい」

「どんな命令でも、か」

斎藤が無言でうなずいた。

「その言葉、偽りではなかろうな」

斎藤の肩をつかみ、畳に強く押し付けた。
袴の裾をたくし上げ、強引に衿元に手をいれる。
一瞬、斎藤が抵抗した。

「わたしの相手をしろ。」

伊東が耳元にささやくと、抵抗がゆるんだ。
嫌がる相手を無理やり抱く趣味はなかった。
伊東に芽生えた優越感が、残酷な行動に駆り立てたのかもしれない。

久しく女を抱いていない。
一夜の慰みに、抱いてみるのもいいだろう。

斎藤を抱く動機は、そんな軽い気持ちだった。

着物を剥ぐと、雪色の肌があらわになる。
濃紺の長襦袢が斎藤の白い脛をきわだたせ、欲情をそそる。

抱きしめる。
斎藤の長い黒髪が、伊東の躰に絡みつく。

眼が合うと、斎藤は挑むような視線を向けてきた。
獲物を狙うような鋭い眼差しに、寒気がするほどの色気を感じた。



「伊東先生はお人が悪い・・・」



伊東の腕のなかにいる斎藤が、冷ややかに微笑んだ。




魔性の笑みに、見えた。





******   ******   ***********


それから伊東は、毎晩のように斎藤を抱いた。

理由は、自分でもよく分からない。

ただ、斎藤を抱きたかった。

斎藤とは一夜限りのこと、と思い定めていたはずだ。
なのに、どうしてこのようなことになったのか。

こんな経験、初めてのことだ。

島原に通っても、このような感情をもったことはない。
気に入った女に対しても、遊びは遊びと割り切る醒めた一面が伊東にはある。
誰かに深入りすることなど、なかった。

しかし、いまは違う。

躰が、心が、斎藤を求めている。
斎藤にとって男に抱かれた経験は、伊東が初めてではなかった。
斎藤は、抱かれ慣れている。
一度抱いてみて、すぐにわかった。
躰が「男」というものをどう受け入れるのかを、知り尽くしている。

(澄ました顔をして、こいつはかなりの淫乱だ)

おそらく、任務で躰を売るような真似をしてきたのだろう。
躰は伊東の与える愛撫に喜んでいる。

斎藤はそのつど、甘い吐息をもらすものの、しかし、その瞳は、醒めている。
どこか、侮蔑の色がひそんでいた。

間者と気づかぬ愚かな男とでも、心のなかで蔑んでいるのだろう。
それが、伊東には癪にさわった。

(わたしは騙されてなどいない。愚かなのは、お前のほうだ。
近藤派と袂を別ったなどという見え透いた嘘を、わたしが見抜けぬわけがない。
間者としてやってきて、生きて帰れるとでも思っているのか)

斎藤は、木偶人形のように抱かれている。
が、躰だけくれてやっているのだ、という斎藤の態度が気にいらなかった。

しだいに、斎藤への抱き方が乱暴になってきた。
抱く、というよりも犯す、という表現のほうが合っている。
屈辱的な体位をとられても、斎藤はなにも文句はいわない。

これも任務と割り切っているのか、いつものように醒めた眼で伊東を見つめている。
あざ笑っているようにも、見えた。

その瞳を見るたびに、伊東はいいしれぬ苛立ちと怒りが湧き起こる。
自分と交わりながらも、取り澄ました斎藤の態度が、気にくわなかった。

昼は清廉な武士。
閨では、娼婦のように妖しく乱れるこの男。
伊東が抱くたびに、透明感のある美しさに磨きがかかるのは何故だろう。

「お前は・・・いったいどれだけの男と寝たんだ?」

ある晩のこと。
褥(しとね)の中で、伊東は思い切って訊ねた。

「一人や二人という数ではあるまい。どうなんだ、斎藤」

「そんなこと、どうでもいいではありませんか」

涼しい顔をして、伊東の銀煙管を口にくわえている。

「わたしのことはどう思っているんだ?」

「さあ・・・」

斎藤は静かに微笑んだ。
どこか皮肉っぽい笑みにも見えた。

「答えろ・・・わたしのことをどう思っているんだ?」

斎藤は答えない。ただ、にやにやと笑っている。
まるで伊東の反応を愉しんでいるようだった。
どうして傲慢な態度をとれるのか、伊東には不思議だった。

こいつは間者だ。
弱い立場は、この男だ。
わたしが哀れんで、殺さずにいてやっているのだ。
感謝すべきは斎藤のほうなのに、どうして自分に執着しないのだろう。

「答えろっ!!」

気がつくと、伊東は声を荒げていた。

「答えろ!お前は・・わたしをどう思っているんだ?」

柄にもなく、大きな声を張り上げていた。
苛立ちの原因は、自分でもよく分かっている。

斎藤の口からは、一度も「愛している」という言葉は出てこない。

ただ、伊東のされるがままになっている。
斎藤が抱かれるのは、任務のためだけなのか。

自分への愛情はかけらほどもないのか。
抱いても抱いても、捉えどこのない想いを持たせる男。

自分ばかりが囚われて・・・これではまるで、ひとり芝居だ。

「言え!!なんとか言え!!」

斎藤は答えない。
深遠の海を思わせる闇色の双眸が、伊東を冷たく見すえている。

気がつくと、斎藤の細い首に、手をかけていた。
首をへし折るほどの強さで、締めつけていた。

斎藤は唇を小刻みに震わせ、顔を青白く染めてゆく。が、何も答えない。


「伊東先生!!
おやめください!!伊東先生!!!」


部屋へやって来た部下の声で、我に返った。

「いったい、どうなさったのですか、伊東先生!
斎藤先生を殺すつもりですか!!」

驚いた部下は、自分と斎藤を交互に見比べている。

斎藤は赤く腫れあがった首をおさえながら、大きく咳き込んでいた。
恨めしさもなにもない。ただ無表情に、伊東を見やる斎藤の姿がある。
小面憎いほどの、落ち着き払った態度だった。

(わたしは・・悪くない。悪いのは斎藤だ・・・)

伊東は自分のしたことが、信じられなかった。
日ごろ温厚なはずの自分が、斎藤を相手にすると人が変わる。


伊東の知らぬ、もう一人の自分が顔を出す。


自分以外の男と寝ていた、という事実が許せない。
屈服させたい。
髪の毛一本たりとも、自分が独占したい。
そんな気持ちが、ふつふつと胸のうちから沸き起こる。

抑えようとしても、堪えきれない、禍々しい感情だ。


(わたしは・・この男になにを望んでいるのだ?)


ただ、斎藤の気持ちを確認したいがために、こんな真似をしているのか。



やり切れぬ思いのまま、月日だけが流れていった。










「伊東先生、斎藤に気を許してはなりませんよ」

そう忠告してきたのは、伊東の腹心・内海次郎である。
武蔵川越の出身で、伊東の門弟。
深川佐賀町にあった伊東の道場では、師範代を務めていた。

伊東とは同い年だが、道場主であった自分への敬意を忘れない。
つねに“敬語”で話しかけてくる律儀な男だ。

「気を許したつもりはないさ」

「そうですか?」

内海は、いぶかる。

「毎晩のように、斎藤の部屋に行かれるから、わたしは心配しているのです。
まさか、斎藤に籠絡されたわけではありませぬな?」

わからない。
それに、斎藤への想いが「愛」というひと言で片付けられるものなのか、
伊東には疑問だった。


「愛」なら、伊東なりに理解していた。


わけあって妻とは離縁したが、夫婦仲はうまくいっていた。
お互いが、想いあい、労わりあう。共にいるだけで、安らぎ癒される。
心にやさしい灯火がともる、そんな穏やかな関係。
愛とは、そういうものであるはずだ。


だが、相手が斎藤となると話がかわってくる。


斎藤のすべてを略奪したい。
誰の手にも、渡したくない。
狂気にも似た欲望が、泉のように湧きあがってくる。

たった一人の男に、自分が囚われている。
自分でも可笑しくなるほど滑稽な光景だ。

「どう考えたって、あいつは怪しいです。
土方から内情を探るようにと、言い含められたに違いない。
奴は間者に決まっています。すぐに、始末すべきです」

「そんなこと、いつでも出来ることだ。
ぼろを出した頃に殺したっていいだろ」

そのひと言で、内海は納得してくれた。
が、それは、自分への言い訳でもある。


いつか、いつかと思いながらも、斎藤を殺せぬ自分がいる。


勉学も、剣術も、人並み以上に頑張ったのは、
ひとえに国のため、そして、自分の名を上げるためだ。
百姓あがりの近藤や土方が牛耳る組織に入ったのも、そのためだ。
恋だの愛だの、ささいな想いに拘る場合ではないはずだ。

情事におぼれる真似は、しない。
そう戒めていたのは、他ならぬ自分ではないか。

男ひとりに翻弄される自分を、伊東は認めたくなかった。
しかし、いま頭にあるのは、攘夷でも、勤皇のことでも、ない。


頭にちらつくのは、冷たい眼差しをむける斎藤の姿だった。


(あいつを・・斎藤を殺したらどうなるだろう・・・・)



その想像は、伊東にとっては甘美なものでもあった。



穢れを知らぬような白い肌を、ずだずだに刀で切り裂きたい。
朱に染まった屍(しかばね)を、自分の腕のなかで抱きたい。
そうすれば、斎藤を自分だけのものにできる。


最期の最期に、斎藤はどんな顔をするのか・・・。


伊東は乾いた笑い声をあげた。


そんなこと、分かりきっている。


きっと、いつもの冷たい瞳で、自分を見つめることだろう。


陽炎(かげろう)のように胸にくすぶる、斎藤への愛しさと憎しみ。



こんな気持ち、いままで知らなかった。






******   ******   ***********


伊東は、勤皇活動をするために、新選組に入った。
しかし、皮肉なことにも、「新選組」に籍を置いたことが
その足かせになっていった。

それは、新選組から分離をしてからも同じだ。

伊東は倒幕派の志士から、信頼どころか警戒された。

「壬生浪が池田屋でやったことを、よもや忘れたわけではあるまい。
われら同志を斬った、幕府の犬ぞ。
いくら伊東殿が分離をしたといえども、壬生浪に属していた過去にはかわらないであろう。
貴公をそうやすやすと信じられるわけがない」

長州藩士から、何度も言われた言葉である。

佐幕派組織・新選組にいたことを、志士たちは快く思わなかった。
新選組から分離した御陵衛士は、佐幕の立場とはちがう。

それを明確にするためにも、新選組の局長・近藤勇を亡き者にする必要があった。
伊東は同志たちと共に、近藤の暗殺を計画した。


伊東が醒ヶ井通りにある近藤の妾宅に招かれたのは、ちょうどその時だ。


供もつれず、伊東は一人で向かった。
同志の篠原泰之進や服部武雄は、反対したが伊東は気にも留めなかった。

近藤からの文(ふみ)には、伊東のために活動資金の金子(きんす)を渡したい、と書いてあった。
あくまで御陵衛士は「新選組から分離」したわけであって、決裂したわけではない。
新選組と御陵衛士は、表むきには友好関係にあるから、さほど警戒心を抱かなかった。


そして。


その帰りに、木津屋橋通で待ち伏せていた新選組隊士から襲撃を受けた。
かろうじてその場を切り抜けた伊東は、朱に染まった刀を杖代わりにして油小路を歩く。

躰が、鉛のように重い。
身にまとった黒縮緬の羽織や仙台平の袴が、真紅の血を吸ってゆく。
肩、腹、背中、腕。槍で受けた傷からは、焼けるような痛みが走る。
致命傷を負いながら、なおも歩いている自分が不思議だった。
ほとんど、気力で立っているようなものだ。
傷口から流れる血が、点々と道を汚した。

(なぜ、こんなことになったのだろう)

時折、とぎれる意識の中、伊東は思う。
名を上げて、勤皇の思想を世に広めるはずだった。
死ぬときは、高邁な思想に殉ずる死でありたかった。


だが、現実はどうだ。
満足に使命を全うせぬまま、名もない隊士から受けた槍の傷で死のうとしている。

数日前、斎藤は月真院から行方をくらませたが、いまなら、その理由がわかる。
「近藤暗殺」の密議を、新選組の首脳部に通報するためだ。

要するに、斎藤は間者としての役目を果たしたわけである。

殺(や)られる前に、殺(や)る。
それが、近藤と土方だ。
ふたりが新選組の実権を握ったのは、反対派への、度重なる粛清の結果なのだ。
伊東が邪魔者ならば、躊躇なく抹殺するだろう。
妾宅に招いたのは、自分を亡き者にするためだ。


いまさら後悔しても遅いことだが、もっと早くに斎藤を殺すべきだった。


そうすれば、近藤たちの謀略に嵌まることはなかったろうに。


斎藤を殺さなかったのは、自分の甘さであり、弱さだ。
それが、己を破滅に導いた。


男ひとりのために、身を滅ぼす。


まるで、犬死だ。


それが、愚かな自分にふさわしい最期なのか。





本光寺の門前に、着く。


すると、遠くから「からん」、と下駄の鳴る音が耳についた。


からん、からんと乾いた音は、静寂に包まれた夜空に高く響く。
伊東の耳には、その音が忍び寄る死の気配に感じられた。


ふいに、下駄の音が止まる。


目の前には、高下駄を履いた斎藤の姿があった。
浅黄色の羽織を羽織っている。
新選組の隊服だ。

(わたしの死の検分にきたのか・・・)

斎藤の姿に、伊東は自嘲気味に笑った。

「お前は・・・わたしを馬鹿にしているのだろう?
間者と見抜けなかった愚かな男だ、と・・・。
ははっ、ふざけるな。わたしは・・・とうの昔から、お前が間者だと気づきていたさ」

「そうでしょうね」

無造作に言った斎藤に、伊東は耳をうたがった。

「わたしも思いました。
伊東先生は最初からわたしの正体を見抜いていた、と」

「お前は・・・」

伊東の声が怒りで震えた。自分がこけにされた気持ちになった。

「わたしを殺す気ですか?
そうですね。伊東先生がわたしを憎むのは無理もないことです。
八つ裂きになさっても、構いませんよ。・・・どうぞ」

斎藤の表情は、あいかわらず変わらなかった。
硝子球のように無機質な瞳が、伊東をまっすぐに見すえている。

風がふく。
斎藤の長い黒髪が、宙に舞う。
月の明かりが、斎藤の横顔を青白く照らしていた。

「どうしたんですか、伊東先生。さあ、遠慮なさらずに」

無造作に近づく斎藤に、伊東の刀を持つ手が震えた。
すぐにでも殺すことは、できる。



しかし、殺す前に訊ねたいことがある。



「斎藤、教えてくれ。
お前は・・・わたしのことをどう思っているんだ?」



「愛していますよ」



斎藤のうすい唇が、そう告げる。



「愛しています。
ずっとお慕いしておりました、伊東先生」


氷のように冷たい笑みが、斎藤の口の端に浮かんでいた。



偽りだ。



ほんとうに自分を愛しているのなら、自分を裏切るはずなどない。
そうとわかっていながらも、「愛している」というひと言を渇望していた自分がいる。


伊東は嗤(わら)い声をあげた。


狂ったように嗤った。


自分でも気が触れたと思うほど、嗤った。


すでに、斎藤を殺す気は失せている。
伊東は、刀を捨てた。


斎藤一。


任務のためならば、意に染まぬ男と寝るのも、厭わぬ男。
目的のためならば手段をえらばぬ非情さを持っている。


この男の何に魅入られたのか。



声か。
眼差しか。
それとも、何があっても動じぬ氷のように冷たい心か。



斎藤は月に似ている。



ただの月ではない。魔性の月だ。



不吉を招く、禍々しいまでの美しさ。


ひとたび魅入られたものは、奪いたいと願わずにはいられない。


斎藤は「愛している」、と自分に告げた。
伊東にはそれが、媚薬を含んだ毒に感じられた。

愛してもいない相手に、どうして偽りの愛の言葉を口にするのだ。
それは斎藤なりの哀れみなのか、はたまた、残酷さなのか。


斎藤を愛している。


裏切られても、死の間ぎわになっても、なおもこの男に囚われている。



いっそのこと、斎藤を憎んだまま死ねたらよかったのに。


伊東の意識が遠のき、冷たい地面のうえに崩れ落ちた。




月の輝く夜だった。








               
 (完)



もう頂いて読み終えた時、私は少しの間小説の世界から抜け出せず
しばし呆然としてしいました。
それほど、私はこのくらげさまの小説にどっぷりと嵌ってしまっていたんです。
すごく妖艶でかつ男らしさのでた斎藤さんにクラリと・・・・
私も伊東さんと同じ魔性の月である斎藤さんに魅せられてしまいました。(うっとり〜)
でも、最後の伊東さんの「憎んだまま死ねたら・・・・」というあの思いにキュンと切なくなってしまった私なのです。

くらげさま。ほんまに素敵小説をどうもありがとうございました∩∩)


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